中国ビジネスとは? ーその1

  恒大集団や河野太郎氏の件で俄かに注目度が高まった【中国ビジネス】。この【中国ビジネス】の正体とは何なのか?と言う点で考えてみた。中国の問題の本質に迫る答えを弾き出せたと思っている今だからこそ、書く気になった。数回に分けるがご一読頂きたい。

1996年 中国初の常設サーキットのオープニングイベントのパンフレット


【改革開放】はいつから?

 一般的に中国経済が諸外国にその門戸を開いたのは鄧小平の〝改革開放路線〟からと言われているが、本当にそうなのだろうか?そこで私は自身が経験した主観とフィーリングで時系列に纏めてみた。

 一般的に日本との接点の強化は1984年以降と言われている。この頃、中国の沿岸部には経済特区と言う特別なエリアがあり、私自身、電通の協力を得て1996年に初めて中国の地、関東省珠海市と言う経済特区に入る事ができた。そしてこの時に最初の奇妙な光景を目の当たりにする事になる。
 中国初の常設サーキット、珠海国際サーキットがこの年にオープンし、そのオープニングイベントの招待枠を何とか手にした。しかしネットもまだ普及していない時に、よくぞここまで話しを繋げたモンだと今だに不思議になる。

 当時、電通の担当者が香港西武からヘッドハンティングされて来た方で、彼は私たちに広州までタクシーで来る様に指示。珠海からフェリーで行けば1時間で香港に戻れるのに、わざわざVISAを追加して珠海から広州、深圳を経由して香港に戻る様に指示をされた。
 今思えば、これこそ親心で『経済特区を見て中国だと思うな』と言う思いがあったのだと思っている。経済特区、それは中国の中で最も進んだエリアのはずだが、その経済特区珠海市から広州に行った我々は度肝を抜かされた。

 出発点は今の珠海市香州区の吉大と言う場所で、今は高層マンションが立ち並んでいる場所だが、当時そこには珠海賓館と言うとてつも無い品格のホテルがあり、主催者がそこを用意してくれた。
 早朝四時に迎えのタクシーが来る。VWのジェッタだった。その吉大からサーキットのある金鼎を抜け、今で言う広珠高速道路に当たる道、それは当時、未舗装の凸凹道だった。タクシーの運転手の話では、そこは将来、高速道路が通ると言う(実際に通った)。

 凸凹道が舗装道路に変わるとそこは街だ。位置関係から言うと、今の中山市だったはず。やがて完全に舗装道路になり、大きな街どころか高架になっている自動車専用道路がある巨大都市に入った。あまり綺麗ではないが今のタイのバンコックのレベルにはあり、とにかく驚いた。
 当時の日本人の中国に対するイメージは恐らくその殆どが〝貧しい〟と言う言葉を思い浮かべるのではないか?と思うが、そのイメージとは程遠い街並みが広がった。目的地の広州賓館に着くと、そこには電通の駐在員であるR女史が待っていた。ここでおかしな感覚に襲われる。

 おかしいな?中国は文革後、厳しい経済状況で世界の最貧国の一国にあるはず。いつの間にこんな街ができたんだ?貧しくて困っている。だから日本は援助している。しかしこの見窄らしくも、活気ある街並みやビルは造られてから少々時間が経っている。
 時は1996年11月。時計を逆戻りさせてもそれらはもう二十年は経過している建築物ばかり。つまりは1977年に出来たと仮定しようか?それは文革が終わった時期と重なる。それから二十年近く、食うや食わずで苦しんできたはずでは? いや、だったら10年前の1987年に針を戻そうか?そこから中国は裕福だった?そうは聞いていない。まして1989年には天安門事件まで起きている。それにしても時系列と街並みが合わない。。。

 これから数年間、定期的に中国に通う事になり、2005年からは一つのプロジェクト、それはモータースポーツの件だが、現地にプロジェクトを立ち上げる事になる。

 その二年半後には移住する事になるのだが、疑問はますます膨らんで行く。
  • いつまで貧しかった?
  • いつから改革開放に切り替わった?
  • 一人っ子政策で二人目を孕った妊婦が香港の海沿いを逃げて行き、中国側に捕まったあの映像は?
  • それにしても、なぜ皆んな兄弟がいる?
完全に頭の中は空転した。

 これは完全におかしいぞ?聞いている話し、学んでいる話しと違うぞ?元来好奇心旺盛な自分は直接調べる事を決めた。それが後の中国のビジネスの解析に随分と役に立つのである。これから数回に分けて、その辺りを綴っていきます。


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