回転寿司チェーン然り、コンビニ然りである。
ある一方では、雇用形態と賃金の問題にどうしても引っ張って行きたい様であるし、
またある一方では、彼らは承認欲求の末の行動だと言う。無添くら寿司の非正社員比率は88%ーバイト、パートに過度に依存する企業体質からの脱却をー(藤田孝典) https://t.co/aqQ22e0iX3 くら寿司の問題は、安い商品を提供する外食産業全体の働き方やアルバイトへの処遇の仕方に議論を移していくべきである。— 藤田孝典 (@fujitatakanori) 2019年2月11日
まぁ…どっちも正しいんでしょうね…。今ツイッターでバカな動画を取り上げるとめっちゃバズるので、悪者をこらしめたい人と承認欲求すごい人がtiktokやインスタの承認欲求すごいバカの動画を漁るという流れができあがってしまっている。これから過去のバカ動画がどんどん掘り返されるんだろうなぁ、地獄だ。— 篠原修司@福岡のITジャーナリスト (@digimaga) 2019年2月10日
彼らはバイトしているから、引きこもりでも無さそうだし、バイトしている事自体がニートでも無いでしょう。本来は極々普通の青少年なんでしょうね。但しこの様な問題を起こしたからには“タダでは済まない”でしょうし、この先、重いモノを背負って生きて行かなければならないだろう。
“極々普通”の彼らがナゼ?この様な愚行に走ってしまったのか?
そこを考えて行かないとこの手の問題は片付かないであろう。
日本の平等教育が産んだバカッターの発生
私はこれらの原因をこの様に考えます。
日本の教育はどこまでも平等である。世界的に見ても最早少数派に属すると言えるくらい“貧富の差が少ない義務教育を受けられる国”なのである。
しかし世の中に平等なんてこれっぽっちも有るワケは無く、むしろ格差は拡大の一方である。もちろんそれはそれで“正しい”。資本主義であり、自由経済であり、自由主義であるから当然の事で有る。
一方、日本には中国、就中、中国共産党を忌み嫌いながら、なぜか強く社会保証を求める傾向がある。
それらのメンションを眺めていると『あんたら共産国行けば?』と言いたくなる位の求め方である。言っておくがその中共の故郷である中華人民共和国は『なんだこりゃ?』と声が出るくらいの格差社会である。
本業であるモータースポーツに目を向けると、日本では貧乏しながら朝昼バイトに明け暮れてモータースポーツに取り組む人物は少なからずいる。一方、中国ではそんな事はあり得ない。貧乏人はひたすら社会の貧困層に沈み、モータースポーツなんて見に行けるだけ幸せである。
そう言う意味から言うと、勝てるチャンスのある環境にいる人間はよりアグレッシブルに。低浮上でチャンスも無い人間は静かに受け入れるか犯罪に走るかが精々である。
さてその日本。この国には“負けた事が無いルーザー”達がゴマンといる。平等・過保護の下、勝負のスタートラインにさえ立てない若者が犇めく。TVを付ければ同い年か年下の華やかなフィギアスケーターやレーシングドライバー等がゴロゴロいるのである。
彼女・彼らは14-5才から年間数千万円の体制で華やかなスポットを浴び、世間の耳目を集める。もう最初から勝負はついているのだ。問題をそれをどう認識するか?の問題である。
“負ける事”にこそ真理がある
人間である限り、大なり小なり承認欲求はある。
人に勝ちたい闘争本能もある。
それらを内包しながら、時に体育の授業で負け、時に部活で負け或いは勝ち、或いはその次のステージで負ける。物事万事、勝った時よりも負けた時の方が学ぶ事が多い。そうして学んで消化し、強くなって行くものだ。
それが勝負の機会すら無く、ただただ傍観者として見ているしか無い時期に、その内に秘めた欲求はどこに向けられるのかを考えれば、暴挙へと走る行動と思考回路も分からなくも無い部分がある。
歌で勝負した。絶対的な自信の中で歌ってみた。
しかしその脇で、もう足元にも及ばない圧倒的なレベルで歌い上げるものがいれば、それでも“俺の方が上手い”と感じ取るだろうか?
その昔、航空業界に恋い焦がれ、フライトシュミレーターに没頭した挙句、“自分の方が操縦が上手い”“実際の旅客機を操縦したい”と言う欲求が抑えきれず、ハイジャックの挙句に機長を殺害してしまった青年がいた。
引用:big maniwa
“現実とゲームが区別できない”“孤立していて周辺とのコミュニケーションが取れない”など、様々な事を言われていた。彼もまた事件を起こす遥か前に“負けた”と言う現実を理解しないまま、事件を起こしてしまった。
“負ける”と言う事は恥ずかしい事では無い。
負けて泣いている子供を見て親は、それはもう居た堪れ無い気持ちになるだろう。負けると言う事はその本人の精神の柱に大きな傷を残す。しかしその傷はやがて太い節に変わる。竹の節と同じだ。節は全体を強くする。
負けた事が無い、否、負けた事に気がつかない人間はこれからもっと増幅するだろう。
部活でもなんでも、制度の括りで論議せず、いま一度“心の成長”を考慮する時代に来ているのではないのかな?と思う。
“負ける”と言う事は恥ずかしい事では無い。
負けて泣いている子供を見て親は、それはもう居た堪れ無い気持ちになるだろう。負けると言う事はその本人の精神の柱に大きな傷を残す。しかしその傷はやがて太い節に変わる。竹の節と同じだ。節は全体を強くする。
負けた事が無い、否、負けた事に気がつかない人間はこれからもっと増幅するだろう。
部活でもなんでも、制度の括りで論議せず、いま一度“心の成長”を考慮する時代に来ているのではないのかな?と思う。